Werther_is_kyokon’s blog

R18となっております

懐旧

8時過ぎに学校に行って、10時過ぎに申し訳程度の時間を潰して、昼に大して美味くもないし好きなもんでもない飯を食わされ、その後適当に遊んで民主党の支持母体の連中に洗脳されて帰路につく。

 

15年前の俺の1日はこの連続だった。毎日、毎日、毎日──。

 

そんな毎日が嫌で、好きなものを好きな時に食える大人が凄く羨ましくて、学校という塀の中から見える外の大人が無性に自由に思えて、俺はあの時は一刻も早く大人になりたかった。

 

三日前

俺は1つの電子媒体を目の前にしていた。

 

ポケットモンスターなんとかサファイア

 

15年前の俺が、子供だった俺が、大人に憧れてた俺が夢中になってやってた、「ポケットモンスターサファイア」のリメイク版じゃねぇか。

 

やってみた。

 

感想を言おう。

        

                        “””響いてこない”””

 

幾ら電子媒体と格闘しても、当時のまだ何も知らなかった世界へ1歩踏み入れた感覚はない。ただそこにあるのは惰性に生きた大人が生み出す虚無の世界。違う。俺は"これ"が欲しくて金を払ったんじゃない。「未知との遭遇」とでも形容すべき、嘗ての西洋の探検家たちが成しえたような、自分の知らなかった存在と会合した時のあの純粋なまでの感覚、これが欲しい。なんであの時と同じキモリを選んだのに、同じ技を覚えさせたのに、あの感覚は蘇ってこないんや、、、、、、?。

 

その刹那、俺はこの15年で失ったものを数える。

穢れも知らない無邪気な”俺”、無知故の夢を持っていた"俺"、まるで自分が世界の中心にいるような錯覚をしてたクソガキの”俺”。

 

これだ。

 

自分の中で何かを悟る。それは昔世界を動かした数多の人々、もとい英雄に共通する明確な答えなのかも知れない。

 

そこからは早かった。実家に帰るなり「んママァただいまぁ」と今年23になる無職が叫び、(この時全く動じなかった母親もどうかしてるとは思う)ガリガリ君を一瞬でたいらげ、嘗て住んでいた社宅付近まで自転車で赴いた。真夜中に1人、よく遊んだブランコに揺れた。あの時の俺が蘇る。昔通ってた小学校の前に辿り着く。そうだ、俺は抗ってたんだ。大人の理不尽さに気づきながらも、俺はそれを認めたくなかったんだ。次第に現実が遠のいて行く。目を閉じれば、そこに広がるのは当時の俺と、ともだち。

あの頃の俺は子供特有の理不尽さに耐えていたような気がした。今となってはすっかり忘れてしまった、どこかのクソガキにバカにされたこともあったような気もするし、早生まれで身体が小さかった分苦労もしたような気もした。そんな毎日の、子供だろうとある日常の混沌を、忘れさせてくれたのがあの"世界"だったのだ。

 

そうか

 

俺にとってのサファイア

 

「夢」だったんだな。

 

ここで現実に引き戻された。夢から醒めた俺は帰路に着く。途中、腹が減ったので昔家族でよく食ったラーメン屋に行く。無論好きなもんを好きなだけ食う。これが昔思い焦がれていた俺がやりたかったことだ。途中、何故か酒が飲みたくなった。無論普段俺は酒なんぞ飲まない。寧ろ、酒を浴びるように飲む人間は自制心のない阿呆だとすら思う時もある。しかし何故かあの時は酒を欲した。(当然のように一口飲んで全て捨てる羽目になったのは言うまでもない)

 

今、俺は紛れもなく据(しがらみ)の中にいる。就職、学歴、卒論、人間関係、、、

そういう意味では、当時の俺と本質は何も変わっていないのかも知れない。ただ、一つ言えるのは、俺はもう二度と夢をもってあの電子媒体の世界に入れないという事だろう。

いや、そもそも3500円(中古で購入)という当時の俺からしたらとてつもない大金を、なんの躊躇もなく払った時点で俺はあの頃には戻れなかったのかもしれない。

 

(完)

 

追記:先程うんこをしながら当時のカセットを理由もなく触ってたら、うんこの中にカセットを落とし、無事俺の”夢”とやらはうんこと共に果てました。一応腹を括り人生2度目の「うんこの中に手を突っ込む」という決死の特攻をした事で骸は拾ったのですが、この調子だと中のデータは吹っ飛んでそうです。うんこって今も昔も同じ形ですねヮラ。

獅子身中の虫

まず初めに、私は右翼ではない。愛国心の欠片もない。かといって、人種差別主義者でもない。以下の話は全て「紀行文」である。

 

2019年初春、私は色々あってアメリカって国に行ったんですね、アメリカ。友人はてっきり数日旅行にでも行くのかと思ってたのか、「何泊?」なんて聞いてくるものですから、「60泊61日のご予定でございます♡」って返したら何言ってんだコイツって顔されましたね、まぁそれはいい。

 

アメリカって本当にアタマのネジが飛んでるバカが本当に多いんですよね、スーパーに行っても釣りの計算まともに出来ない奴とか、掛け算の六の段すらマトモに言えない奴とか、挙句の果てに100ドル札に描いてある人すら知らないってレベルの人間すら散見されました、もうね、こんな国にご先祖さま負けたんかって一度は思いますよ、マクドナルドに行けばニッコニコした石塚英彦アメリカver.みたいなのが片手にコーラ(無論L)片手に理論値のハンバーガー(肉を最大まで増してその間にチーズを挟めるだけ挟んだ感じの奴)を食ってるんすわ、私はそれを見ながら1ドルで飲み放題の飲み物を飲んで何時間も粘ってるワケです。なるほど、俺は所詮イエローモンキーなんだなと、奴らから見たら乞食同然なんだろうなと、その時思わされるワケです。

 

また、何日も過ごしてると、たまーに差別って言うか、「これ完全に俺の事バカにしてるよな」って輩にも出くわすんですね、目を釣り上げてこっちに向かってくるガキとか、エスパニョール圏の奴らにチノ(中国野郎的な意味らしいが俺はてっきり某日常系アニメの白髪のガキを連想してしまった)って言われたり、バス停で俺一人待ってたら露骨にスルーされたりと、まぁ特に殴られたとか脅されたとかそういう経験は無いのですが、「あー、これが差別なのかー」程度のシロモノは体験させて頂きました、それもタダで(多分日本で体験しようとしたら結構な金かかると思う)。ぶっちゃけた話、陰湿な日本人の差別っつうか虐めっつうかそういう系の”かわいがり”の方がよっぽど糞of糞なんですが、私は残念ながらこういう事されたら何かしら一矢報いる人なので、何かやってやろうと、何かやってアメ公共に一泡吹かせてやろうと、そう心に誓うんですね、それが今回のお話

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

「気づいたら、腹に違和感があったんです。」

 

帰国後私はあの時の事をこう回想する。

 

「友人を空港に送った後に、人間なら誰もが経験するであろう”絶望ーthe pain of despairー”が腹に来たんです。それもあの時は5段階中の4.5からのスタートでした。」

 

因みに、5段階とは私の中での便意の強さを示す。基本的に、4を超えたら頭の中の思考回路は「うんこ」一色に染まる。4.5を越えようものなら、知能指数が一気に跳ね上がる。本能とは人間の潜在能力を引き出すのだ。

 

「空港で見つけた便所に私は飛び込みました。一瞬が永遠に感じられました。鍵を閉める瞬間、上着を掛ける瞬間、ズボンを下ろす瞬間、ケツを下ろす瞬間。一つ一つが永遠に感じられました。」

 

「そこからは本能のまま。無我夢中に大腸の指示に従ってた迄です。」

 

そしてこの時、外に人間の気配を感じる。アメリカの個室は日本とは違って扉の下の部分が切り取られているため、外に人がいれば直ぐに分かる。ここで私は起死回生70年越しの”no more the Hiroshima”レベルのパルチザンを思いついてしまった。

 

「ブバババババババ、

 

 

ビーーーーー。」

 

容赦の無い放屁を放つ。その音ははまるで沖縄、サイパン、ガナルカナルでの機関銃のそれを連想させる。

 

「ブッ、ブブブブッ、ボボボボ。」

 

機関銃の音と共に繰り出されるのは、無慈悲の爆弾。嘗てインドシナ半島に落とした枯葉剤の如く、辺り一面を破壊する。

 

「ンンンンンァァァァァァアアアア。」

 

勝者故の咆哮をあげる。今から70余年前、彼らもまたこの声をあげたことだろう。

 

「フンンンンンンッッッッッッ!!!       ブッ。」

 

一瞬の静寂と共に再びの放屁が放たれる。日ノ本京王線新宿駅公衆便所で鍛えられたその音は彼らの心を挫くには十分であった。その表情はまるで鎌倉かどこかの阿吽像のそれに近い。丁度、クリントンの嫁が昔”ひめゆりの塔”を訪れた時の顔に近かった。

 

『ohhh my god』

 

聞くに耐えない重低音に、百戦錬磨の米兵も音を上げる。それもそのハズ。この「原子爆弾」は昨日食ったマクドナルドとケンタッキーフライドチキンで出来ている。お前のソウルフードで、お前は敗れるのだ。

 

「Sounds good?」

 

私も優しく声をかける。壁一枚隔たれた先からの声に彼らは何を感じただろう。届きそうで届かない、そんな絶妙な距離感を醸す扉は、全人類への何かのメッセージにさえ思えた。

 

『no(ノーーーー)』

 

遂に彼らは降伏した。モノづくり大国である我が国は、どうやら排泄物の”作り”も一流らしい。ブツを流すと、「詰まる未来が容易に想像できる音」が聞こえた。

 

扉を開けた。彼らと目が合う。その表情は微笑みに満ちていた。これもまた、世界平和を目指す人類への何かのメッセージなのかも知れない。

 

俺は今成田にいる。「故郷の土を踏む」とはよく言ったものだが、そんな大層な感じはしない。寧ろ、「これからクソジャップと関わらなきゃいけねぇのか(私は日本人の気質がどうも合わないのではないかとさえ思い始めていた)」と憂鬱にさえなった。Twitterには、この時期海外に行ったと思われる頭の悪そうなクソ共(あーいう人間はほぼほぼ100%大麻を吸った事を自慢してくる)が、海外を知った気になって「日本のここがダメ」とか何とか言っている。俺が嫌いな日本人ってのはああいう人間を指す。私が得た教訓を言おう、馬鹿な人間はどこに行っても相手にされない。アメリカだろうが、日本だろうが、地球の反対だろうが、馬鹿な人間と分かっただけで寄ってくるのは同じく「馬鹿」だけだ。何れにせよ、外国人はオープンだとか、外国人はコミュ力があるとか、日本人はダサいとか、そういう訳の分からない事よりも、私が得た教訓というのがマトモである事を願って止まない。

 

(完)

中二の頃拷問を受けていた話

幾分か昔の話なので記憶は定かではないし、更に言うとただでさえ脳みそが弱い私の言うことなので凡そ信憑性は保証出来たものでは無い。また1部脚色があったり、極論を言うと宇宙人によって記憶を改竄されている可能性すらありうる。予め断っておきたい。

 

知っている方は殆ど居ないと思うが、俺の通っていた某特別支援学校ことウンコブリブリ学園(俺の中ではこう読んでいる)は、まぁそれはそれは理不尽を極めたような学校で、敢えて今回触れるつもりはございませんが、色々な理不尽を経験したものでございます。もうホント、あそこで一通りの理不尽を経験したらこの先大抵の理不尽耐えれますわって感じの理不尽でありました、特に中学の頃が酷かったですね、多少の遅延は認めて貰えませんでしたから。

 

「電車の遅延ぐらいわかるだろ、

 

お前が悪い」

 

そう言って巨漢の小島先生は中一のガキを泣くまで殴っておりました。

 

この生活を一年続けたら、もうよく分かんないですけど人間として強いものが宿るんですね、中二になった頃には反抗期と重なってもれなくキモの据わったクソガキが爆誕する訳です。しかし教員もバカではありません。中二の夏休みに臨海学校という名のガチ拷問を行って更なる矯正を施さんとするのであります。これが今回のオハナシ。

 

戸田湾を隊列を組んで往復。ゴーグルは無し。

 

キチガイという他ない。なぜゴーグルをつけないのか疑問に感じる人もいるだろう。「顔を上げて泳ぐのでゴーグルは必要ない」というのがその答えだ。中々の理不尽ではなかろうか。1日目は炎天下の下、海パン一丁になって延々と軍隊みたいな練習を何度も何度もさせられる。4人1組になって、先頭の人間が「A級〇〇班!!!!四名異常なし!!!!」を声が枯れるまでやらせられる。どう考えてもブラック企業の朝礼を超えた理不尽だ。そういえば保護者会で、「日焼け止めを塗らないと火傷して水膨れができます」といっていたが日焼け止めを塗っても余裕で全身がもろ日焼けを超えて火傷した。太陽は理不尽だ。1日の締めに海水に入って少し泳がされたが海水が滲みてマジで死ぬかと思った。悪意さえ感じた。傍にいた筋骨隆々のボートに乗った野郎が列を乱すなと延々に怒鳴っていたのが印象的だった。

 

次の日、戸田は夜から翌朝にかけて豪雨が襲った。ホテルの地下は浸水し、練習は中止だろうと誰もが確信した。しかしその程度ではこの特別支援学校はへこたれない。なんと大雨洪水警報が出ている中、予行演習と言う名の特攻命令が下された。命をかける瞬間である。船に乗って対岸まで輸送される我々は最早「生きて帰る」事しか頭になく一部の人間を除いて皆顔が死んでいた。

 

ここで一つ君たちの疑問に答えよう。泳げない人間はどうするのか。簡単だ。泳げるようになればいいのだ。あらかじめ水泳の授業で泳力に応じてA、B、C、Dに分けられ、AとBだけが遠泳に参加できる仕組みだ。(因みに俺は以前にも当ブログで紹介した通り、水泳教室でオナニーに励んでいたのでAだった。)一見、カナズチにも配慮しているように思えるだろう。だがそれは本質ではない。直前の授業で、Cの人間は大体が謎の昇格を遂げる。一気に二段階昇進を遂げる者すらいた。何故か昇格の条件が緩くなり、240人中恐らく200人以上は特攻を命じられていただろう。因みに、一応任意参加と銘打ってあるのだが、参加表明しないと容赦なく深夜の個別訪問がある他、集団心理によって参加せざるを得なくする仕組みまで完備していた。完璧だ。要は、ガチな運動音痴を除いて、ほぼ全員殺す気なのである。

 

さて舞台は大雨が降る戸田湾である。もう全員が全員「生きて帰る」事だけを望んでいた。戦後65年の当時、果たして誰が“生還”だけを本気で願っただろうか。いつもの様に、大声で異常なしを叫ぶと、我々は特攻を命じられた。念のため、というか、マジで当たり前なのだが各班に傍2人、昨日の筋骨隆々の野郎が申し訳程度に配備されていた。

 

そこから先は本能のまま泳いだ。素晴らしいことに俺たちが泳いでる最中、雨足はあり得ないくらい酷くなった。前が見えない。当然、列が乱れる。しかし、昨日散々やれ列を乱すな列を乱すなと怒鳴っていた野郎はどうしているかと言うと、ボートにしがみつくのに必死になっていた。本来我々を助けるはずの人間が、自分の事に必死で我々に一切目をかける事なくボートにしがみついていた。あの光景は間違いなく後の我々の人格に影響を与えた瞬間といっても過言ではないと断言できる。兎に角、「まあそんなもんだよな」の一言であった。そこからは正直覚えていない。目を瞑って(しかしどこからか「前を見ろ」との怒号が聞こえていた事だけは覚えている」)”平泳ぎ的な何か“をし続けた。がむしゃらという言葉が最も適切だっただろう。不思議なもので、人間その域まで踏み込んでしまったら全てのことを難なく受け入れることができるようになる訳で、対岸までたどり着いた時に何故か隊列がUターンをし始めても何も感じなかった。地獄の復路の始まりだった。

 

復路の後半になると、雨足が収まって来て、さっきまで大人しかった野郎も安全なボートの上から怒鳴り始めた。もう誰も聞いていない。人間の本質を垣間見た。本能のまま俺らは泳いだ。

 

そして、俺らは帰還した。さて、上陸したらまずすることはなんだろうか。本来なら、隊列を組んであの「異常なし」を声高らかに叫ぶところだ。しかし、一部の正義感溢れるバカは雨に打たれ真夏に震えながら固まっていたが、殆どの者は帰りの船に飛び乗っていた。この時、これこそが世の中、これこそが人生哲学、これこそが縮図だと私は確信した。その道中、藤田という教師が、ビニールシートをかたずけろと怒鳴っていたが誰一人として戻ってくる者はいなかったのが物凄く滑稽だった。また一つ、俺らは強くなった。理不尽は理不尽で応えるという一つの解、術を覚えたのだ。

 

帰りの船で、ある友人がこう言っていた。「今すぐに帰れる代わりに怒られて済むなら、俺は悦んで怒られるわ」

その言葉が妙に印象的だった。

 

最終日、遠泳は中止となった。帰りのバスで、太鼓持ちが「どうせならやりたかったな〜」と教師に聞こえる声でボヤいていた。それも一つの”生きる道“だろう。寄らば大樹の陰、強い奴に取り入る事も大切なのは事実だ。だが俺はこいつとは絶対に仲良くなれないと確信した。

 

聞いた話によると、翌年から遠泳はなくなったらしい。保護者から強烈なバッシングにあったそうだ。当然の結果だろう。兎にも角にも、一つだけ言えるのは、あれ以降、何かに縋ったり、何かを信じるというのは俺から無くなったのは事実だ。やや格好をつけた書き方で非常に恐縮だが、今回はこれで終いとする。

 

そもそも、なんでこんな昔の話をしようと思ったのか、それは今年の夏に遡る。内定を貰った同期が、昔の話をツマミに思い出を話していた。或る者がこう言った「中一のオリエンテーション(次書くとしたらこれ)も、中二の遠泳も、中三のスキーも、楽しかったな」

 

あの時の拷問じみた整列も、本気で死を覚悟した予行演習も、”学生生活の1イベント“という括りに入ってしまえば、それは思い出として美化されてしまうのだ。所詮、「そんなもの」だ。

 

(完)

 

p.s この前例の特別支援学校に行ってきた。その際、高2〜3の担任と少し話ができた。俺は思い切って当時の話をしてみた。「俺も断行した時は背筋が凍ったよ、事故があったら確実に俺たちのクビは飛んでたね」

どうやら、一部の教員達もこの異常事態には気づいていたようだ。

これより恐ろしいチキンレースがこの世に存在するだろうか

俺が高校3年生の時、俺だけがやってる遊びがあった。遊びという程楽しいものでもない。1歩間違えたら破滅する。これは決して冗談の類ではない。本当に「破滅」するのだ。場所は女子便所でやっていた。予め断っておくと俺の高校は男子校である。染色体XXは一人もいない(しかし模試の際に御茶ノ水女子大を志望するあまり性別欄に女とマークする人間は後を絶たなかった)。何故女子便所があるかと言うと、学校説明会で来る教育ママゴンのために生徒から高い授業料をせしめて大層立派なものを拵えたというカラクリで、俺的にひじょーに気に食わなかった。その上、俺達の男子便所はウォシュレットが無く毎度馬鹿共のせいでうんこがこびり付いてる有様だが、女子便所は普段誰も使わない事もあってとても綺麗だった。俺は普段から女子便所を愛用していた。

 

ある日の事だ。いつものようにうんこをしてうんこまみれのケツに容赦なく水攻めをしていると、脱糞中にIQ300になる俺の脳は新たな境地を悟った。「おしり」を押す。ウィーンとノズルが出てくる、コンマ数秒のラグの後にお湯が出る、17歳の若き天才はそのコンマ数秒に命を賭けようとした。

 

この”コンマ数秒”の間にうんこをすれば、ノズルをうんこでへし折れるんじゃね?

 

天才の導き出した仮説はこうだ。パンツを下ろす→ケツをセットする→腹を括る→おしり(パワフル)を押す→ノズルが出る→うんこをする→ノズルをうんこの重みで破壊する→「止」を押す→ノズルを引っ込める→勝利

 

今考えると知的障害者のそれと大差のない理論であるが、当時の俺は全力で楽しんでいた。さらに、この「チキチキ!脱糞ゲーム!」には恐ろしいリスクがあった。皆さんご存知のように、脱糞をした直後に水が出ると、もれなくうんこまみれの液体(うんこ水溶液と命名した)が俺のケツめがけて飛んでくるのである。まるで産まれた川に戻る鮭のように、大腸目がけてうんこがケツに突っ込んでくるワケだ。文面にすると大した話ではないが、これは人間の尊厳に関わる切実な案件である。1歩間違えたらケツがうんこまみれになる。これがクラスの人間に知られたらまず「〇〇(俺の苗字)がうんこ漏らしたー」と声の大きい遠藤くんに言われることが必死である。それだけは是が非でも避けたい。私は腹を括った。

 

「おしり」を推す 水の勢いは5分の5  無論パワフル 準備が整った。つかの間の静寂を打ち破るかのように、機械音がケツの下から聞こえる。ー”ヤツ”が来るー。機械音が止まった。「今だー」思考のスピードに肛門筋が追いつくと、俺の肛門から変わり果てた“昨日の晩飯”が解き放たれる。勝利を確信し、「止」を推す。勝った!俺は勝った!明らかに「捉えた」音がする。いつもとは異なる謎の機械音が響く。私の勝利が確かであることを確信する。さて、第1波が出たことだし浣腸をして残りのうんこをしましょうか

 

 

やらかした

 

ここで自分の愚かさに気づく。今さっきウォシュレットは「破壊」したのだ。今パワフルを襲うものなら、5分の5の勢いでうんこがケツ目がけて突っ込んでくることが確定している。しかしなんという皮肉だろう、腹に力を入れすぎたせいで中途半端にうんこが出てしまった。まだ糞は残っている。俺はうんこがしたいーーー。

 

5分後、俺は別の便器にいた。なんてことは無い。うんこをけつにつけたまま平行移動したのだ。ここが男子校で本当によかったと思う。勝利と敗北が交錯する。その表情は勝者の愉悦でも敗北者の慟哭でもなく、安堵だった。

 

(完)

お遊戯会で流行ったあの話は果たして美談なのだろうか

あれは12年前、俺が小学校三年生だった頃に遡る。毎年俺の小学校では学芸会などというクソクソクソクソくだらないイベントが催される。いや、言い直そう、“健常者博覧会”が催される。健常者の皆様が年に一度、全校生徒の前で教員の決めた役を演じて、教員の自己満足の為に役になりきる。それだけでも十分「うつくしい国日本」としてのクレイジーさ満載の話だが、それを演じるクソガキ共もまた「うつくしい」一面を窺わせる。不思議なことに、主役クラスに立候補するのは何故か顔面偏差値の高い人間で、脇役になるのはブ男醜女なのだ。もうこの時期に顔面偏差値による自然淘汰の原則はそんざいしたのだ。顔面偏差値の高いことを確信している森山さんは主役クラスの少女役を買って出たし、目立ちたがり屋の正直いけ好かない野郎だった中村くん(四月生まれのガタイに物を言わせて休み時間ドッジボールで無双するタイプのクズだった。)は主役に近い役の動物園の園長を進んでやりたがっていた。もう察しの良い読者なら我々が何の劇をやらされたか理解しただろう。我々がやらされたのは「戦時中にぶっ殺された可哀想なゾウさんのお話」だ。

 

とまあ俺の昔の話はいいとして、あの「ゾウの話」には少々キチガイじみたエピソードがある。一応俺の記憶を元に簡単にあらすじを話すと、戦時中に尾張国だかの動物園でゾウの飯がなくなったんだけどなんとか数頭ゾウさんを殺したことでことなきを得たが、バカな動物園職員が戦後電車を改造して像列車なるものを運行しました、みたいな話だったと思う(詳しくはググれば出てくるからこれを見ている教員諸君は参考にしてくれ)。まあこの際、電車を改造して高々ゾウのために電車走らせるとか、愛知県の分際でゾウなんか飼育してんじゃねえよナニお前上野と天王寺に並んだようなツラしてんだとか、そういうことには目を瞑るとして、「お前それだけは絶対にやっちゃあかんやろお前」ってのがある。なんと、戦時中の餓死寸前になってる日本人に鬼畜ともいえる東山動物園の職員はゾウのための餌を分けるよう懇願し始めるのだ。「当時の国民の飯は配給制によって厳格に管理されており、成人男性1人につき米330グラム、イモ、かぼちゃ、野菜の芯などで、現代の摂取カロリーの60%しかなかった。」と厚生労働省のホームページに記載されている通り、ガチな糖質制限を強いられていたにも関わらず、斎藤くんの演じた動物園職員の「お願いです、動物たちの餌を分けて下さい」なーんてセリフを言われたらどうするよ、ってはなしだ。今回はこの件について考察していきたい。

 

言うわ、 ぶん殴るよ。

 

現代の話に置き換えよう。貴方は苦学生で、必死の思いをしながらアルバイトと学生生活を両立させ、公務員試験に向けて必死に頑張っている。バイトの給料日に泣けなしの数万円が口座に入って喜んでいたら、繁華街でたまにいる東南アジア系のババアに金をせびられた、としよう。いや、この場合東南アジアのババアと言うよりかは、聞いたこともない大学の見るからに頭の悪そうな奴らに「カンボジアに学校を作るのでその金下さい」と言われたとした方が適切かもしれない。どうだろうか?俺だったら間違いなく顔の形が変わるまで殴り続ける事をここに誓う。更に、65年後そいつらが「カンボジアに学校を作った話」という名で全国の初等教育の場に於いて美談として語り継がれていたら、最早「あの時殺しておくべきだった」と本気で後悔するであろう。理不尽を通り越して祈る人間がいてもなんら不思議ではない。

 

そもそも、戦争中にゾウさんがいる事のメリットは何かを本気で考えた時に、「子供が喜ぶ」「ゾウさんかわいい」「癒やされる」などと言う人間が本気でいるだろうか。いやまずいない。飯が食えない時に子供が喜ぶのは上野の動物園でも無しに、紛れもなく「田町にある腹を満たすためだけにステータスを振ったラーメン屋」であり、ゾウ如きで癒やされる人間は間違いなく瀬戸内寂聴の話でも聞いていればボロボロ泣いて心中する程度の人間だ。早い話、どんぱちしてる最中、あのでっかい生き物を飼う理由は何処にもないのである。目的もメリットも無い中で餓死寸前の人間のおまんまを多数者心理を使って(劇中では動物園の職員総出で餌を乞うていた)掻き集めようとは全くふざけた話であろう。これが古代中国の話であれば「像乃育成君即愚也(像の飼育係は愚かだった)」と書かれてもなんら不思議ではない。

 

話が飛躍するが、ちょっと頭を使ってみると、現代社会に於いてもこの「像乃育成君即愚也」の事例は見受けられるように思える。例えば、糞や異臭、並びに作物の被害などの被害が甚大な地区で猫を自治体主導で殺処分したとしよう。この場合、猫が害獣なのは明らかである。紛れもなく猫を生かしておくメリットはない。しかしツイッターには何処ぞの猫をアイコンにした脳みそまで猫レベルに退化した猫信者がブチ切れている。なるほど、時代が変わっても馬鹿は馬鹿なのか、あの劇から教わったのは「戦争はいけないね」とか、「像が可哀想」とか、そう言う話ではなく、もっと人生に於ける、何かこう深淵に迫るようなものだったのではないかと今になって思う次第だ。

いんきゃ、ようきゃとは何か

時に醜いネット民のみならず、ガチなリアルの人間との間ですら、こんな決まり文句がある。

 

「あいつインキャだから」

 

インキャ、「陰」の「キャラ」で陰キャラ、なるほど、大した蔑視用語だ。この情報化社会に於いて、陰キャラという烙印を押された暁には「ねぇ、〜って陰キャラなんでしょ?」とか「陰キャラマジきもw」と健常者共に後ろ指を指され、これまた健常者の勝手に作り上げた”すくぅるかぁすと”という名の謎の身分制社会で不可触民、現代のダリトハリジャンとなってしまうだろう。しかし私は、今回この「陰キャラ」の定義についてもう一度考察していきたい。何故なら、「陰キャラ」の烙印を押すのは何処ぞの公式な陰陽判定士でも学校の先生でもなく、あくまでも「独断と偏見だらけの若造」だからだ。彼ら彼女らが、本当に公平性をもって我々を判別するのか、私は疑問に思った次第なのである。

 

まず陰キャラとは何か、そこから議論は始まる。残念な事に広辞苑様には陰キャラなどという単語は記載されていなかったのでGoogleで調べて見るとしよう。

 

インキャラとは、陰気なキャラ(性格)の人のこと。陰キャラ・インキャとも。スクールカーストでは下位に属し、ともすればいじめ(ネットいじめ)の対象になりうる。対義語として陽キャラという言葉も定着している(Wikipediaより)。

 

中々の言われようである。なるほど、これは最早現代の死刑宣告、我々の世界でいう「こいつ和式でうんこできないらしいよ」に近い。

 

しかし、ここで私は1つの疑問を抱いた。人間とは人によって態度を変える生き物である。例えば、目の前に嫌いな奴がいたとしよう。具体例を挙げれば坂上忍上西小百合、その辺の人間である。今貴方は坂上忍上西小百合と飲み屋で同卓しているとする。果たして、貴方は坂上忍上西小百合の最強ペアと積極的に会話をしようと思うだろうか。紛れもなくその答えは「極力話さないようにする」であろう。中には露骨に嫌な顔をして一言も言葉を発さずに終始ケータイを弄っている人種もいるかもしれない(因みに私はこの部類です)。私が何を言いたいか、それは「人間とは嫌いな奴がいれば言葉を発さなくなる」という普遍的な事実である。

 

逆に、目の前に超絶”よきかな”な人間がいたとしよう。具体的に言えば自分に好意を抱いてくれてる美少女とか、仲の良い幼なじみとか、そういう人達を連想して頂ければ結構だ。もっと言うと貴方が普段オナペットにしてる異性が何らかのバグで貴方に超絶好意を抱いてるとしよう。どうだろう、どんなに口数の少ない人間でも話すに違いない。他愛もない話、将来のこと、ちんこの形、何を話すかは知らないが兎に角終始顰めっ面をしてスマホを弄るということはまずしない。

 

勘のいい皆様の事だから、私が何を言いたいかそろそろ気付く頃だろう、

 

いいかそこの自称陰陽判定野郎、てめぇな、マジで魅力がねぇんだよ、偉っそうに人様の事知った面して、何様か???俺がお前の前で喋んねぇのはお前が嫌いだからに他ならねぇんだよ😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄💩💩💩😄😄😄💩😤🧠🧠🧠🧠🧠🧠🧠🧠🧠

 

どうだろう、君たちの身近にもこの「陰陽判定士」はいないだろうか。偉そうに人材派遣会社のお偉いさんにでもなったかのような面で人様の事をあれこれ言って調子に乗ってる絵面を見たことはないだろうか。そしてその人に対して魅力を感じただろうか。

 

私は無い。そして思う。「こういう奴こそ”インキャ”である」と。

俺が中高時代に入ってた部活について話す時が来たみたいだな(前編)

※これからここに記す事は完全なノンフィクションである。一切の脚色、一切の紛いの類はない。それを前提に読み進めて欲しい。

 

中高時代の話をしよう。

 

この極東の島国で中学、高校を過ごそうものなら、我々は謎のコミュニティにぶち込まれるのは皆さん知っての事だろう。私もその例外ではなかった。””部活””という監獄にぶち込まれる日本の中高生は、この世の理不尽という理不尽を一つ年上ってだけの人間に教えこまれ、年功序列社会の闇を垣間見るのである。

 

やや脚色が過ぎる様に思えるこの文言、当時中学校1年生の私は本気でこれを想像していた。部活とは理不尽の権化であり、拷問紛いのことをされられると、本気で信じていた。

 

仮入部の時になった。ある者は水泳部、ある者はバスケ部と、皆思い思いに希望する部活に所属し、汗を流す中、当の俺は「帰宅部」という超絶ゆとりな部活に所属していた。

 

1ヶ月後、私の常識を遥かに上回るとんでもない部活が出現した。その部活は、運動部であるにも関わらず、顧問が体重80キロ超え、指導経験無し、筋トレ無し、試合無し、という前代未聞の好物件であった。私はすぐさま興味本位にその部活の練習に一日だけ参加してみた(その部活は緩すぎるが故に一人ぐらい増えてても全く問題ないのである)。部活が終わるころには私はこの部活に入る決心をしていた。私が選んだ部活はバドミントン部であった。

 

驚くべきことに、その部活に入るには特別な書類も顧問の印鑑も必要なかった。ただ月曜日と木曜日に体育館に来て「何か」をしていればよかったのである。入部当初の私はラケット自体も持っていなかったが、適当に階段を上っているフリさえしていれば自然とバドミントン部の人間として認識されていったのである。これぞ私の思い描いていた”部活”像であった。黄金郷ともいえるこの部活に入って数か月も経つと、面倒になった部員諸君がサボり始めるのである。普段廊下ですれ違った部員とかわす言葉は「今週部活行く?」であった。(後に四年間部活をサボり続けて、高1になって急に”部員”を名乗り始めた猛者さえ現れた)やがて夏休みに入ろうとする季節になると、ほかの部活に入っている友人は頻りに合宿のはなしをするようになった。しかし顧問から言われた言葉は「うちは合宿をしません」であった。ほかの部員はその時ばかりは残念がっていたが、当の私は流石バドミントン部だと感心したのを覚えている。更に、顧問から渡された夏休みの活動日は僅か三日という内容で最早笑う他なかった。

 

そんなこんなのバドミントン部では普段どんな練習をしていると思うだろうか、そこはバドミントン部と銘打ってる手前、バドミントンをすると考えるのが本来の解であろう。無論、バドミントンをしているといえばしているのだが、我がバドミントン部には一つ深刻な問題があった。同じ体育館で練習をしているバスケ部やバレー部の存在である。中でも、バスケ部は一際厳しいことで知られていて、なぜか部員は大半が坊主頭で顧問が怒鳴り散らしている、まるで少林寺を彷彿とされる部活であった。彼等と同じ活動日になってしまった暁には体育館を半分にして活動させられる事を強いられた。そうなると当然下級生はバドミントンなんぞできる場所など無い。こういう時は下級生という物体は筋トレや自主トレに専念すべきらしいのだが、残念な事にバドミントン部には「筋トレ」という概念はない。俺たちがやっていたこと、それは”永遠に駄弁る”であった。下級生の間はラケットを振るよりおしゃべりに花を咲かせていた記憶しかない。こうなってくるとバドミントン部とは最早名ばかりで、実態は社会不適合のサロンへと成れ果てたのであった。

 

その話をどこからか聞きつけたほかの部活に所属している炙れもの達は、次第にバドミントン部に流れ始めた。まるで自由の国を目指す1930年代の移民である。彼らのような流浪の民をバドミントン部は拒むことなく受け入れていった。こうしていくうちに上級生になった。「俺たちはいつ引退するのか」「俺たちはもう”引退”している」「うちに引退は存在しない」—謎の哲学さえ囁かれた。すると突然、ある者が突拍子もなくこんなことを言いだした。

ーーー”””””試合に出たい”””ーーー

これには保守派とリベラル派で様々な意見が飛び交ったが、最終的に「出たい奴だけ出ればいいんじゃないか」という結論に至った。

 

ここらで一旦終わります。今回は淡々と事実を述べてるだけなので大した話は出来なかったかも知れないが勘弁して欲しいところである。