Werther_is_kyokon’s blog

R18となっております

国語の教科書にあった「形」の現代版をやってみたのでここに垂れ流すとする。

2015年に高校を卒業した頃は、浪人が決まった鬱屈さに加えて、「5年もしたら社会人になってるんやろな」などと遠い未来に思いを馳せたもので、また翌年大学に進学して地球の裏側でやってるオリンピックを眺めているときは、「次の五輪がやる頃には社会人になってんのか」なんて思っておりましたが、いざその時になってみますと、相も変わらず私は学生というご身分をやっている有様で、未来を思うってのは単なる絵空事でしかないんだなと思う次第であります。

でもしかしまあ、そんな私も少しずつではありますけれども社会に向けてまるでベルトコンベアのごとく運ばれているってのも事実でして、今この2020年5月には一丁前に就活ってのをやらされている訳なんですわ。はるか遠い昔、俺がまだ大学二年生のちんちんだして暴れてた頃だったかに、図太さに定評のあった高校の友人が就活関連でTwitterで病みまくってるのをみて、二年後の自分と重ねたりもしていました(幸いなことに二年後お前は相変わらず二郎食って健康な精神で3年生やってるよと今の俺から言いたい)が、いざ就活っていう土俵に立たされると、一年後なのに全く先行きの見えない、そんな近くて不鮮明な将来を考えただけで気が狂いそうになるのも大いに納得できます。

そんな状況に立たされたら、人間まともなことをしなくなる訳でして、昨年最終面接で「私の尊敬する人物はスティーブ・ジョブズです」と言ってリンゴをつぶして内定を掴み取った(後日その内定を握りつぶしてやったと声高々と話していた)友人や女子大の事務職に応募した京大生など、誰しも今考えるとトチ狂ってた話の一つや二つありましょう。当の私も実は昨年の某社の面接で一発カマしていたのをふと思い出したので、ここに懺悔させていただく次第である。

 

2019年秋、確か世の中は国民的ショタ好きのジャニー喜多川が死んだとかその手の話でもちきりだったと思う。メディアは喜多川を礼賛し、人々はそこそこの好景気に浮足立っていた。

 当の私はというと、クソみたいなエピソードとどうしようもない資格を引っ提げて、とりあえず知ってる企業に応募して「就活」をした気になっておりました。今考えると「あほ」以外の何物でもない。

幸いにも、エントリーシートでバッサリ切られる大学ではなかったので何個かは通ったんですね、そんで次は面接をしましょうとの案件が送られてきまして、さあどうするかって なりましてね、いろいろ考えました。でもね、結局使えそうな作戦ってのはパッと思いつかないのが人間なんですね、最終的に「場当たり」で何とかしようとの結論に至りました。(話すのは凡人より幾分かマシだろうとの思惑により)

そんでもって当日になって会場につくと、絵にかいたような健常者という健常者が胡散臭い笑顔浮かべて偽善者面してるんですわ、経験した人ならわかると思うんですけど、あの顔は本当に人間の何か根底にある”悪い部分”を体現しているようにしか見えないんです、本当に。入って早々にニタアアアって笑ってくる明治大学商学部の野郎の顔が忘れられない。席に着くと、A4大くらいの紙で「自己紹介を済ませてください」と書かれたものがおいてあるんですね。私はこういう時は必ず””他人の出方を伺ってどうふるまうか決める””類の人間だったので、まずはこいつらがどこの馬の骨か見てやろうと斜めに構えたものでありました。(アスペ)

やはり開始早々に動いたのは明治大学商学部の”奴”でした。「えっと、明治大学商学部の(ワントーン高い)○○です。今私はサークルの代表をやってまして~」と、一丁前にかましてやったぞ的な顔でほざいてんですわ、周りの雌も「頭いい~」なんてほざいてるもんだからその顔がますますにたあああああああって気持ち悪くなってる。マジで。こういうやつが銀座で女口説いてる。下半身木村敏敏敏にして酒イキリをしてる。すかさず「お前さ、凸〇印刷とかいうのがそんなにええんか?お前はいったい何がしたいんだ?」などとリクルート魂を受け継ぐ私(二次選考落ち)がテレパシーを送るわけであります。次の眼鏡の男はなかなかの曲者でしてね、おそらく俺と同じことを考えていたのでしょう。「早稲田大学文化構想学部の△△です、よろしくお願いします」の一言で終わらせたんですね、顔が終始しかめっ面で明治君に露骨に腹を立ててる印象でした。そのあとの女二人はどっかの私大で、まがいなりにもそこそこの国公立大学裏口入学とはいえ在籍している私としましてはそのまま”チキチキ学歴バトル”をしてもよかったのですが、知り合いが一人もいない環境下だったので一発かましてみることのしました。

 

東京大学文学部インド哲学科出身のKです。よろしくお願いします」

 

もうね、一瞬で場が凍り付きました。私はこの時初めて偏差値教育の真の恐ろしさというものを垣間見た気が致します。明治君は真顔に、早稲田君はよくやったといわんばかりの顔に、ほかの雌は若干引いておりました。人間23年、はったりだけで生きてきた私はさらに追撃をかける次第であります。

 

「僕は明治君とは違ってサークルには入ってないんですよね」

 

完璧なまでの”狙い撃ち”であります。私の出身地の京都府には「京ことば」という遠回しに人間をディスるとても便利な言葉がありまして、この場合、「お前はうるせえから黙ってろ」が直訳としては正しかったと思います。果たして、東京駿河台の”とうきょうもん”には効果はあるのか観察してみたところ、なんと””覿面””でありました。急に口数が減って、私を現人神か何かのような顔で見て「どうしてこの業界に興味がわいたんですか?」なんて聞いてくる有様であります。適当に将来性が云々っていったら『いやあ東大は違うなあ』なんて説法を聞く爺の如くうなずく明治君の姿がそこにありました。ああなるほど、こうやって宗教ってのは開かれるのか、こうやって令和のインチキペテン師はオンラインサロンであぶく銭を儲けているのかと感じた次第であります。

そこからは完全に俺のターン状態でした。調子に乗った私は、麻原彰晃の声真似で「では、時間なので移動しますか」とグループ面談の部屋に意気揚々と移動したのでありました。

しかし実のところ移動のさなか、私の頭に一物の不安がよぎりまして、会場の席に着いたときに面接官に自己紹介をするってなった場合、大学を言う流れになったらやばいんじゃないかと気づきまして、冷や汗がとまらなかったんですね。どうにかしてでっち上げたこの最強の雰囲気を保持しようと画策しまして、天才の私二分の一以上で勝てる作戦を瞬時に思いつきました。

「ではあなたから自己紹介をしてください」と言いたくなるような場所を命を懸けて陣取れば、私がトップバッターで自己紹介ができると考えまして、そうすれば大学名を言わずに自己紹介を済ませられる流れを作れると踏んだんですね。さすが。

 

そこで、部屋に入るなり私は秒速で面接官の目の前の席を陣取るのでした。Uの形に並べられた机の右端に陣を構えて、面接官にテレパシーと熱い視線を送っているのであります。左端に明治の私文が座ったこと以外は完璧でありました。あとは机の下で両手を握りしめて祈りを込めるしかできなかったので、キリストの祈りとイスラムの祈りと仏陀の祈りの三種類をしておきました。

 

いやあ、やはり3種類の神の加護があったら万事うまくいくんですね、無事にこの作戦はまんまと成功して、無事、私は「東京大学文学部インド哲学科」の学生として周りの学生に印象付けながらグループワークとやらをすることができたのでした。俺が言ったことに家来の如く従う様は大変愉快でありました。俺が支配して、皆がウンウンと頷くその空間は正にオウムの世界そのものでございました。就職活動における”情報の非対称性”が完成した瞬間であります。途中明治のきもいのが「さすが東大生」を何度か連呼していたような気がしたが当然黙殺致したのでした。

麻原の声で進めるのが終盤きつくなって、完全に地声で話したアクシデントもあった記憶がありますが何とか終えることができました。私は有頂天でした。

 

結果から言うと、俺は祈られた。祈られた祈られた祈られた祈られたinorareta。面接官への自己紹介の際に露骨にゴマをすっていた明治君や、まんこパワー全開で面接官に熱い視線を送っていた顔面偏差値5Ⅰの女(情けないことに、このレベルの女が一番”やれそう”と思ってしまうのが男の悲しい性である)が通ったのかは定かではないが、「麻原彰晃の声を出すと落ちる」というデータが手に入ったのは私にとっては大きな収穫であった。

 

さて、本題に戻ろうとする。帰り道、中学だか高校の国語の教科書に菊池寛の「形」という短編小説が掲載されていたのを俺はふと思いだした。確か、戦国の世に名を馳せていた主人公の鎧を後輩だか下っ端に貸して戦に行かせたら、その鎧を観ただけで敵は畏怖し、そいつは戦果を挙げることができた。一方、当の本人は普通の鎧を着てたらいつもより敵が気合十分で攻めてきて、挙句彼は討たれた、という話だった気がする。要は、人間という生き物は、てめえの経歴や第一印象、根も葉もない噂話で力量の大半を見定める癖がある、というものだろう。

どうだろうか。今回の俺のケースはまさにその”形”そのものである気がしてならない。「東京大学文学部インド哲学科」という偽の看板を引っ提げた23歳のパンピーを、あろうことか明治大学早稲田大学ともあろうエリートはまんまと引っかかり、終始自分の能力を発揮できなかったのである。俺は御覧の通り同世代と二年も離れても尚、留年の危機に立たされている頭脳、容姿、育ちのステータスが並以下の人間である。しかし、彼らの目には東京大学という、ある種同世代の頂点に君臨している人間に映ったことだろう。

 

これが人間の本質である。言ってしまえば、誰もまともな評価なんてできないし、自分でさえも、真の意味で己を評価することもできないのだ。だから、人間は経歴を大事にするのだろう。経歴が人間を形成し、当の人間はやはり経歴のみを観るのである。

 

今日、経歴社会へのアンチテーゼを掲げる胡散臭い連中が、「人間力」とか「経験」といった、漠然としたワードで人を図る風潮を流行らせているが、それなら西成のおっちゃんや飛田の風俗嬢でも雇えばその”人間力”とやらは満たせそうな気がしてならない。

 

凸版印刷」という自己啓発セミナーには甚だ脱帽した。

 

(完)