Werther_is_kyokon’s blog

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パンと見世物

オリンピックまで150日を切った。あとほんの数ヶ月もすれば、ここ東京は外国人でごった返して、狂喜乱舞のお祭り騒ぎになるだろう。

オリンピックが終わったら次にパラリンピックというものが開かれる。元々、第二次世界大戦で負傷した兵士のリハビリを兼ねたこの大会の人気は、オリンピックに比べてやや下火である。義足で走る人間よりも五体満足の人間が走る方が見応えがあるのは事実だろうし、またそもそも「障害者」と一括りにしても、足が不自由だったり、目が見えなかったりと、その内容は様々である。その時点で、パラリンピックというのはある種の"ガチャ"要素を持っている側面から、活躍の場が限られる点も下火の一因かもしれない。

 

さて、話が変わるが、俺の過ごした某知的障害者養成学校には体育祭と呼ばれる行事がある。駒沢競技場で年に一度頭のおかしい性犯罪者予備軍が一斉に己の肉体の限界を試すのである。今回は、そこで起こったクソみたいなイベントをそのまま書き連ねる次第である。また、毎度のことではあるが、年々俺の頭は統合失調症か将又記憶喪失か知らないが、記憶の正確さというのは保証出来ない。あくまでも「俺の記憶の限り」である事を忘れないでほしい。

 

「体育祭」と聞いて、諸君が想像するものはなんだろうか。

"青春"だろうか、熱気溢れる応援団だろうか、それとも女とイチャイチャする事だろうか、、、

残念ながら、我々にとっての「体育祭」とは『壁を登る』事である。詳しく解説すると、競技場から観客席までショートカットできる2メートルほどの壁をよじ登る、というものである。それは正しく、現代のオリンピックそのものであった。己が身1つで巨大な壁をよじ登るその姿は歴戦のツワモノを彷彿とさせた。ある者は砦をよじ登る戦士であり、ある者はベルリンに設けられた残酷な壁を越える名も知れぬ1人の勇敢な民にも見えた。それ程なまでに、壁登りは過熱した。壁登りができない者は技量不足の烙印を押され、壁を登れる者には名誉の勲章が与えられた。また、教師の中には壁登りを規制しようとする者まで現れたが、あまりの数の多さと、その低すぎる危険性に取り締まることを放棄した。本来の競技参加者は、競技が終わると観客席に壁を登って帰還し、暫しの休憩を取るとまた壁を飛び降りて競技に向かった。

 

次に生徒たちが熱狂するのが、賭博である。徒競走騎馬戦棒倒し、各々の種目でどこのクラスが勝つのか、どこの学年が勝つのか、それぞれに賭博が行われた。金を賭けると、当然応援に熱が入る。その様たるや、何処ぞの昭和じみた体制で知られる大学の応援団の声量を遥かに上回った。目は血走り、敗者には容赦の無い罵声が浴びせられた。

 

ある鹿児島の学校では、応援団こそ体育祭の華型と言われているそうだ。応援の練習に月日を費やし、競技が終わると皆感動の涙を流すそうである。対して、我々の中で競技が終わって泣いている者がいたとすれば、それは金を失いスカンピンになったが故の涙である。私個人の見解を述べれば、規律の取れた演舞よりも、金を賭けた人間の底力の方が遥かに競技者にとって力を与えるのでは無いかと思う時がある。しかしその力とは、負けて損をさせた時の逆ギレの怖さ故の力であることを我々は忘れてはいけない。恐怖は演舞を凌駕するのだ。

 

また、壁の登れない者たちも英雄になれる1つの方法があった。100メートル走である。

暗黙の了解として、100メートル走の最終レースは各クラスを代表するデブを繰り出すのが恒例であった。それは正しく現代の見せ物小屋である。

かつて古代ローマで見世物として扱われた剣奴が武勇を得た事で英雄になった様に、彼らの中にも見せ物から英雄へと昇格した者が現れた。アメリカ帰りの帰国子女であるTは、Americanizeされたその巨体を活かして名を馳せた。また、小学生時代に「横浜の横綱」として幾度となく駅員に子供料金を使っては止められたYは学年を問わず名物となった。十代にして脂肪肝にまで進展した現在死亡説が唱えられているKもまた、「英雄」の名を獲得した者であった。鳥人間コンテストに出場しようと東北大学に進学するも、体重の問題で入部を断られたNに至っては、そのクラスで他を寄せ付けない存在感を放っていた。

彼らは、スタート時点に立った時点で場を沸かせるカリスマ性があった。その時ばかりは壁登り及び賭博は中断され、皆がその勇姿を焼きつけんとばかりに競技場に集結し、白眉の大一番を待ち望んでいた。YとTが同じクラスになった時には、壮絶な頂上決戦が行われ、横綱が見事勝利を収めたとの逸話さえあった。この場に立つと言うことは、努力だけでは到底到達し得ない、ある種の運さえも手繰り寄せる必要さえあったのである。

静寂を打ち砕くピストルの音が鳴り響くと、一斉にデブ達は走り出す。その様はまさに「滑稽」の一言であった。コーナーでKが転ぶと会場は爆笑の渦が沸き起こり、トップのYが最後の数十メートルで息切れする姿には皆が狂喜乱舞した。一位も最下位も、共に拍手喝采であり、それは正にグーベルタンの言い放った「参加することに意味がある」という文言そのものであった。その意味では、我々の体育祭はオリンピックと称しても良いだろうと、ある生徒が声高らかに叫んでいると、藤田という教師がお前らはパラリンパッカーだろうとイチャモンをつけたのが妙に印象的だったのを記憶している。我々は障害者である事を通告された瞬間であった。何処に支障があるのか一度問うた事がある。それは頭だと言われて妙に納得する自分がいた。

 

冒頭で話した通り、あと数ヶ月もすればそのパラリンピックとやらが始まる。その大会は我々の"パラリンピック"よりも公正で、気高い代物であると願わんばかりである。