Werther_is_kyokon’s blog

R18となっております

人間の証

朝7時ぐらいに飯を食った日の午前11時過ぎくらいの腹の調子に今なっている。

 

体内の血糖値が極限まで下がり、胃が胃液で満たされる。そして口がものすんごい臭くなる(俺はこの状態を「空腹うんこスメル」と呼んでいる。)。俺は昔からこの時間が嫌いだった。なにか食いたい。てか下腹についているその蓄えは今消化せずしていつ消化すんねん、兎にも角にも考えることは飯、めし、meshi。そんな状態で大正義千代田区御茶ノ水の街を歩いていると、悪魔の4文字が目に映る。

 

「大盛無料」

 

0.000000015秒の思考の後、身体がその方向に向かう。俺が入ったのは家系と呼ばれるラーメン屋だ。糞の臭いのスープと生ゴムの麺とコレステロールの詰まった油、そしてなにより「大盛無料」の文字はプロレタリアートな私を惹き付けるには十分すぎる素材と言えるだろう。

 

「大盛で。」

 

脳死で一連の動作の後店員に告げると、コップに注がれた水を一気に飲み干す。油を胃に入れる前の儀式だ。

 

しかし、ここで私は禁断の果実を目にする。

 

「ライスはセルスサービスとなっております。ご自由にお取りくだs」

 

そこに書かれた文字の全てを読むことなく、身体が勝手に炊飯器へと進む。その目は宛ら薬を求めるシャブ中のそれに近く、”白いなにか”を懸命に詰める様はガイキチに映った事だろう。

         

米。

 

それは言うまでもなく我々日本人、Jap、チョッパリの主食である。遺伝子レベルに刻まれた「米=うまい」という方程式は、飢餓状態の哺乳類の食欲を刺激する。

孤独のグルメを見ても「何わかった顔して通ぶってんだこのおっさん野郎が」と思った私でさえも、遺伝子レベルに刻まれた味覚には勝てない。かなうはずもない。

 

う  め  え  な  お  い

 

貪る。その姿はまるで動物。

かつて文明が発達してから、我々人間は自身を動物とは異なった存在と位置づけ、自らを支配者とした。それはある種の傲り、傲慢である。グリコーゲンの無くなった状態で餌と対面した-ヒト-の姿は言うまでもなく「動物」そのものであった。「動物」と『人間』、餌を前にしたらそこには明確な差などなかったのである。

 

「お待たせしました、ラーメン大盛りでございます」

 

程なくして、数十分前に私が注文したラーメンが届く。時すでに三杯目の米を買い終えた後であった。

 

この瞬間勘の鋭い読者諸君は私が最期どのような末路を辿ったか悟った事だろう。ここではその時の描写を綴る機はない。

が、結論だけ述べると私は米を三杯平らげた後に何とか魂〇屋の大盛りを平らげた。また敢えてその感想を述べると、途中からクッッッッッッッッッソ不味くなったとだけ述べておきたい。腹が満たされた状態で食う家系というのは、糞とゴムを食わされているのと同義であると私は切に思う。理不尽な飯を食わされるといえば、諸君らはよく黄色い暖簾の豚の餌を想像するであろう。いやそれは違う。豚の餌は空腹の状態で胃に物をブチ込む。対して、この米→家系は「腹を多少満たさせてからうんこを食わされる」のである。それはまっっっっったく異次元の戦いと言わざるを得ない。

 

さて、私は先程「メシを前にしたら人間は動物と同じ」と述べた。しかし、食った後の私は果たして動物的であっただろうか。その答えはNOである。動物は、メシを食って満たされたらメシを食うのを止める。当然、不味い飯には食う気すら起こさない。一方、私は腹が満たされているにも関わらず、無理やり、必死に、馬鹿みたいに、クソみたいなラーメンを、食った。果たして、この行為が動物的かと聞かれて首を縦に振る奴がいたらそれは文教大学レベルの知能である。

一方で、これが人間的かと問われたらそれは紛れもなくYESであろう。

「ラーメンが来る前に甲斐性も無く米を食ったら腹が一杯になったが、食い意地を張ってクソマズラーメンを食った」という話は、どこかの童話の登場人物に出てきそうな自己中心的な愚者そのものである。にんげんはメシを食って初めて"人間"になれるのである。

どうか、この私の愚行ともいえる反省文を読んだ諸君は、食い意地を張らずに自分の食える量だけを食って欲しいと腹の底から思う次第である。

 

俺は西洋の思想家っつぅのはさぞ大食いだったんだと思うよ。

 

(完)