Werther_is_kyokon’s blog

R18となっております

お遊戯会で流行ったあの話は果たして美談なのだろうか

あれは12年前、俺が小学校三年生だった頃に遡る。毎年俺の小学校では学芸会などというクソクソクソクソくだらないイベントが催される。いや、言い直そう、“健常者博覧会”が催される。健常者の皆様が年に一度、全校生徒の前で教員の決めた役を演じて、教員の自己満足の為に役になりきる。それだけでも十分「うつくしい国日本」としてのクレイジーさ満載の話だが、それを演じるクソガキ共もまた「うつくしい」一面を窺わせる。不思議なことに、主役クラスに立候補するのは何故か顔面偏差値の高い人間で、脇役になるのはブ男醜女なのだ。もうこの時期に顔面偏差値による自然淘汰の原則はそんざいしたのだ。顔面偏差値の高いことを確信している森山さんは主役クラスの少女役を買って出たし、目立ちたがり屋の正直いけ好かない野郎だった中村くん(四月生まれのガタイに物を言わせて休み時間ドッジボールで無双するタイプのクズだった。)は主役に近い役の動物園の園長を進んでやりたがっていた。もう察しの良い読者なら我々が何の劇をやらされたか理解しただろう。我々がやらされたのは「戦時中にぶっ殺された可哀想なゾウさんのお話」だ。

 

とまあ俺の昔の話はいいとして、あの「ゾウの話」には少々キチガイじみたエピソードがある。一応俺の記憶を元に簡単にあらすじを話すと、戦時中に尾張国だかの動物園でゾウの飯がなくなったんだけどなんとか数頭ゾウさんを殺したことでことなきを得たが、バカな動物園職員が戦後電車を改造して像列車なるものを運行しました、みたいな話だったと思う(詳しくはググれば出てくるからこれを見ている教員諸君は参考にしてくれ)。まあこの際、電車を改造して高々ゾウのために電車走らせるとか、愛知県の分際でゾウなんか飼育してんじゃねえよナニお前上野と天王寺に並んだようなツラしてんだとか、そういうことには目を瞑るとして、「お前それだけは絶対にやっちゃあかんやろお前」ってのがある。なんと、戦時中の餓死寸前になってる日本人に鬼畜ともいえる東山動物園の職員はゾウのための餌を分けるよう懇願し始めるのだ。「当時の国民の飯は配給制によって厳格に管理されており、成人男性1人につき米330グラム、イモ、かぼちゃ、野菜の芯などで、現代の摂取カロリーの60%しかなかった。」と厚生労働省のホームページに記載されている通り、ガチな糖質制限を強いられていたにも関わらず、斎藤くんの演じた動物園職員の「お願いです、動物たちの餌を分けて下さい」なーんてセリフを言われたらどうするよ、ってはなしだ。今回はこの件について考察していきたい。

 

言うわ、 ぶん殴るよ。

 

現代の話に置き換えよう。貴方は苦学生で、必死の思いをしながらアルバイトと学生生活を両立させ、公務員試験に向けて必死に頑張っている。バイトの給料日に泣けなしの数万円が口座に入って喜んでいたら、繁華街でたまにいる東南アジア系のババアに金をせびられた、としよう。いや、この場合東南アジアのババアと言うよりかは、聞いたこともない大学の見るからに頭の悪そうな奴らに「カンボジアに学校を作るのでその金下さい」と言われたとした方が適切かもしれない。どうだろうか?俺だったら間違いなく顔の形が変わるまで殴り続ける事をここに誓う。更に、65年後そいつらが「カンボジアに学校を作った話」という名で全国の初等教育の場に於いて美談として語り継がれていたら、最早「あの時殺しておくべきだった」と本気で後悔するであろう。理不尽を通り越して祈る人間がいてもなんら不思議ではない。

 

そもそも、戦争中にゾウさんがいる事のメリットは何かを本気で考えた時に、「子供が喜ぶ」「ゾウさんかわいい」「癒やされる」などと言う人間が本気でいるだろうか。いやまずいない。飯が食えない時に子供が喜ぶのは上野の動物園でも無しに、紛れもなく「田町にある腹を満たすためだけにステータスを振ったラーメン屋」であり、ゾウ如きで癒やされる人間は間違いなく瀬戸内寂聴の話でも聞いていればボロボロ泣いて心中する程度の人間だ。早い話、どんぱちしてる最中、あのでっかい生き物を飼う理由は何処にもないのである。目的もメリットも無い中で餓死寸前の人間のおまんまを多数者心理を使って(劇中では動物園の職員総出で餌を乞うていた)掻き集めようとは全くふざけた話であろう。これが古代中国の話であれば「像乃育成君即愚也(像の飼育係は愚かだった)」と書かれてもなんら不思議ではない。

 

話が飛躍するが、ちょっと頭を使ってみると、現代社会に於いてもこの「像乃育成君即愚也」の事例は見受けられるように思える。例えば、糞や異臭、並びに作物の被害などの被害が甚大な地区で猫を自治体主導で殺処分したとしよう。この場合、猫が害獣なのは明らかである。紛れもなく猫を生かしておくメリットはない。しかしツイッターには何処ぞの猫をアイコンにした脳みそまで猫レベルに退化した猫信者がブチ切れている。なるほど、時代が変わっても馬鹿は馬鹿なのか、あの劇から教わったのは「戦争はいけないね」とか、「像が可哀想」とか、そう言う話ではなく、もっと人生に於ける、何かこう深淵に迫るようなものだったのではないかと今になって思う次第だ。