Werther_is_kyokon’s blog

R18となっております

俺が中高時代に入ってた部活について話す時が来たみたいだな(前編)

※これからここに記す事は完全なノンフィクションである。一切の脚色、一切の紛いの類はない。それを前提に読み進めて欲しい。

 

中高時代の話をしよう。

 

この極東の島国で中学、高校を過ごそうものなら、我々は謎のコミュニティにぶち込まれるのは皆さん知っての事だろう。私もその例外ではなかった。””部活””という監獄にぶち込まれる日本の中高生は、この世の理不尽という理不尽を一つ年上ってだけの人間に教えこまれ、年功序列社会の闇を垣間見るのである。

 

やや脚色が過ぎる様に思えるこの文言、当時中学校1年生の私は本気でこれを想像していた。部活とは理不尽の権化であり、拷問紛いのことをされられると、本気で信じていた。

 

仮入部の時になった。ある者は水泳部、ある者はバスケ部と、皆思い思いに希望する部活に所属し、汗を流す中、当の俺は「帰宅部」という超絶ゆとりな部活に所属していた。

 

1ヶ月後、私の常識を遥かに上回るとんでもない部活が出現した。その部活は、運動部であるにも関わらず、顧問が体重80キロ超え、指導経験無し、筋トレ無し、試合無し、という前代未聞の好物件であった。私はすぐさま興味本位にその部活の練習に一日だけ参加してみた(その部活は緩すぎるが故に一人ぐらい増えてても全く問題ないのである)。部活が終わるころには私はこの部活に入る決心をしていた。私が選んだ部活はバドミントン部であった。

 

驚くべきことに、その部活に入るには特別な書類も顧問の印鑑も必要なかった。ただ月曜日と木曜日に体育館に来て「何か」をしていればよかったのである。入部当初の私はラケット自体も持っていなかったが、適当に階段を上っているフリさえしていれば自然とバドミントン部の人間として認識されていったのである。これぞ私の思い描いていた”部活”像であった。黄金郷ともいえるこの部活に入って数か月も経つと、面倒になった部員諸君がサボり始めるのである。普段廊下ですれ違った部員とかわす言葉は「今週部活行く?」であった。(後に四年間部活をサボり続けて、高1になって急に”部員”を名乗り始めた猛者さえ現れた)やがて夏休みに入ろうとする季節になると、ほかの部活に入っている友人は頻りに合宿のはなしをするようになった。しかし顧問から言われた言葉は「うちは合宿をしません」であった。ほかの部員はその時ばかりは残念がっていたが、当の私は流石バドミントン部だと感心したのを覚えている。更に、顧問から渡された夏休みの活動日は僅か三日という内容で最早笑う他なかった。

 

そんなこんなのバドミントン部では普段どんな練習をしていると思うだろうか、そこはバドミントン部と銘打ってる手前、バドミントンをすると考えるのが本来の解であろう。無論、バドミントンをしているといえばしているのだが、我がバドミントン部には一つ深刻な問題があった。同じ体育館で練習をしているバスケ部やバレー部の存在である。中でも、バスケ部は一際厳しいことで知られていて、なぜか部員は大半が坊主頭で顧問が怒鳴り散らしている、まるで少林寺を彷彿とされる部活であった。彼等と同じ活動日になってしまった暁には体育館を半分にして活動させられる事を強いられた。そうなると当然下級生はバドミントンなんぞできる場所など無い。こういう時は下級生という物体は筋トレや自主トレに専念すべきらしいのだが、残念な事にバドミントン部には「筋トレ」という概念はない。俺たちがやっていたこと、それは”永遠に駄弁る”であった。下級生の間はラケットを振るよりおしゃべりに花を咲かせていた記憶しかない。こうなってくるとバドミントン部とは最早名ばかりで、実態は社会不適合のサロンへと成れ果てたのであった。

 

その話をどこからか聞きつけたほかの部活に所属している炙れもの達は、次第にバドミントン部に流れ始めた。まるで自由の国を目指す1930年代の移民である。彼らのような流浪の民をバドミントン部は拒むことなく受け入れていった。こうしていくうちに上級生になった。「俺たちはいつ引退するのか」「俺たちはもう”引退”している」「うちに引退は存在しない」—謎の哲学さえ囁かれた。すると突然、ある者が突拍子もなくこんなことを言いだした。

ーーー”””””試合に出たい”””ーーー

これには保守派とリベラル派で様々な意見が飛び交ったが、最終的に「出たい奴だけ出ればいいんじゃないか」という結論に至った。

 

ここらで一旦終わります。今回は淡々と事実を述べてるだけなので大した話は出来なかったかも知れないが勘弁して欲しいところである。