Werther_is_kyokon’s blog

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運動会の英雄

知り合いの家に泊まって布団の上でゴロゴロしていたらふと小学生の頃の記憶が蘇ってきたので思い出してみるとする。

 

あれは確か小学校3年生ぐらいの頃だっただろうか。当時僕たちの間ではBLEACHNARUTO結界師が流行っており、ある者は浣腸のポーズをして「火遁!」と叫び、またある者は人差し指を立てながら「ketsu 」「metsu」等と意味のわからない言葉叫んでいた。

 

そうこうしているうちにビッグイベント「運動会」の季節が近づいてきた。当時我々の中には、というか小学生全般に言えることかもしれないが、足が速い=人気者 という方程式が存在していた。運動会で一等賞をとった暁には、ドヤ顔で校内を闊歩し、女を侍らし、皇帝の座につく権限が与えられていた。

 

しかし、世の中には凡人の想像の上を遥かに上回る天才がいたのである。

 

運動会の徒競走というのはレベル別に振り分けられてるのはご存知だろうか。速い奴は速いグループ、遅い奴は遅いグループ、まぁようは公開処刑を避けるための配慮って事なのだろうが、その天才は本来なら誰も注目しないであろう一番遅いグループに属していた。

 

彼は元来走ることが苦手な類の人だった。水泳は比較的得意で、跳び箱に関してはそれなりの才能を発揮していた。それは彼自身も十分に理解していた様であった。しかしその代わり、彼には物凄い才能があった。それは人前であろうと揺るぎない自我を保てる屈強な精神力と、天才的な芸人根性、それが彼にはあった。

 

運動会の二日前、彼は誓った。

 

「俺は、運動会でビリになる訳にはいかない。お母さんの前で一等賞になるんだ。

 

俺は火影になる。」

 

この時の彼の目は、明らかに腹を括った人間の目をしていた。それはまるで、いつの日か観た太平洋戦争末期を題材にしたNHKのドキュメンタリー番組で、『靖国で会おう』と誓った特攻隊員のそれに似ていたようにも思えた。

 

そしてXデーは訪れた。運動会当日、勝者の愉悦と敗北者の慟哭がこだまする中、3年生による徒競走が行われた。

 

さて、私は冒頭に「当時我々の間ではNARUTOが流行っていた」と言ったのを覚えているであろうか、そして”NARUTO走り”なるものを知っているだろうか。知らなければYouTubeで見て欲しいのだが、言ってしまえば凄まじく「ダサい」のである。手を後ろにして顔面を突き出し、体重を前に傾けて走るその様は「ダサい」の一言に尽きるものであった。当時、我々の中ですら運動会でそのNARUTO走りをする事は不可能とされていた。どんなお調子者も、親の前で、はたまた全校生徒の見てる前で醜態を晒す事が、果たしてどれほどの事態を引き起こすか、想像する事すらできなかった。

 

彼が走る番になった。当然、一番遅いグループなので見るからに遅そうなデブと運動神経の無さそうなヒョロガリ人間しかいない。誰も注目する筈がなかった。ピストルが鳴るまでは。

 

ヨーイドン、渇いた音が、5月の湿った空に鳴り響いた。

 

その日彼は伝説となった。

 

全校生徒全員が、80メートルをNARUTO走りで疾走する人間に釘付けになった。何故その走り方をするのか、どうやったらあの様な醜態を晒せる精神力が培われるのか、何故あんなにも遅いのか、そのような言葉が飛び交っていた。しかし、彼がその日一番の”英雄”になったのは言うまでもなかった。6年生のリレーのアンカーでも、組体操のピラミッドの一番上に立つどチビでも、騎馬戦の大将戦の騎手でもなかった。彼は紛れもなく「革命」を起こしたのであった。

 

「革命」が、終わった。結論から言うと、彼は1位ではなかった。3位という何方かと言えば不本意な結果であった。しかし、誰が真の英雄か、火を見るよりも明らかであった。

 

我々は時に、結果を求める事そのものに躍起になる余り、その過程、そのやり方に盲目になる事がある。彼のあの行為は、我々が普段見落としている「過程」や「結果への執念」、そういったものの大切さを今一度問うているのかも知れない。そうだろう、11年前の俺よ。